19歳の頃に書いた雑文(なのでこういうのはあまり公開したくない......)

理路整然な理論を組み上げても、矛盾だらけの人間ないし会社に接合するはずがない。正常ないし完璧ないし無矛盾ないし理論的な無矛盾というのは成立しない。成立するとしたら戦争も喧嘩も社会問題も起こらない。異常者というレッテルを貼られた精神病は人間の矛盾の本質を突いた真理の体現である。だから精神病で苦しんでいる人はもっと自分に自信を持って良い(自覚するのは極めて困難だが)。逆に矛盾から文明が生まれ文化が形成された。活動が促された。そこから派生して社会問題等も生まれ(つまり矛盾の矛盾)人間的活動が生ずる。弁証法的な正、反、合の過程ないしある種の精錬がなければこの認識は生まれない。精錬なしの中途半端な自己肯定は軟体動物に留まる。病気の人も苦しみに耐えていることは立派だが、それだけでは問題は解決しないし、治ったとしても病的苦悩という特殊体験を他者に語るだけでは自己満足ないし矮小な範囲の自己肯定に堕する。ないし感傷的な印象論に留まる。ないし閉鎖的に自己を慰めているだけだ。ある種の蓄積の時間を経て自己の内面を発酵させてそれを外へ表現することで初めて病気の苦悩の昇華ないし成果が発揮されるのではないか。

精神科医というのは正常と異常の橋渡しをするわけだが、基本的には精神病患者の真理の核心をついた心理的影響を受ける。あの精神科医独特の落ち着き、雰囲気という印象はそこからくる。正常と異常の橋渡しをすることに矛盾があって未完成(患者)から完成(健常者)への移行というのは理論的な不可能性を孕んでいるのであって結局、臨床というのはある種の演技、欺瞞という体裁をとらざるをえない。プロレスというスポーツがそれを体現している。矛盾とか出鱈目とか不完全が人間の本質なのであって、理路整然とした完璧な理論体系というのは存在しないし誤謬だし健常者というものも存在しないし健常な理性というものは空想的構築物である。

だが本質(実は仮構ぶつなのだが)を探求する努力は怠ってはならない。良く生きるために必要不可欠だし、社会や生活を豊かにより良い物にしていく(結果論的には挫折する必然性があるが)ことに繋がるからである(プロセスないし過程重視)。出発があってゴールがあるというのは虚構だが、結果という定点を設定してそこへ向けて努力するという過程は自己にも社会にも有益な利潤を齎す。

 

ニュートン力学に最適化されている、というものの言い方は健常者のフォンノイマン進歩史観的幻想誤謬からくるのであって、本来の哲学者であれば量子力学に最適化されていると言うべきで、こちらの言い方のほうが本来の意味で哲学的であり、より本質に近い。

 

ルソーニアンの独り言

ルソーは自然へ帰れとも自然へ帰りたくても帰れない、ともどこにも書いていなくて、あれは全集を通しで読みルソーの言いたかったことを自分自身の直観で感じ取る。すると自然へ帰りたくてもどうしても帰れないんだ、、、というルソーの悲鳴声を聞き取れる。なんで、ルソーが哲学を否定し書物を読むな、と主張するのは、まずはルソーが母親がいなかった。時計職人の父親に育てられた。かつ早熟でまず本の世界で全ての感情の流れを「頭の中だけで理解してしまった」とすると後から「経験」することで事後的に「体感」していく格好になる。そうすると、ある種の空隙のなかで生きることになるわけだが、自分の人生体験の反面教師として書物からはいるな!と言いたかったわけで「エミール」でルソーが言いたかったのは、ふつーに木工細工の職人で暮らしていけばいいんじゃね?っていうふうになる。そうすると、ルソーは多分ものすごくジェントルマンであったのだが、いわば権威者とか威張り散らしている連中と関わりたくなくなるわけだ。フランス国王が会いたがってもルソーがあんなやつに会いたいわけなかろうが。で寝坊しちゃいましたーっつって合法的にばっくれる。

Les animaux ont pour cette communication une organisation plus que suffisante, et jamais aucun d'eux n'en a fait cet usage. Voilà, ce me semble, une différence bien caractéristique. Ceux d'entre eux qui travaillent et vivent en commun, les castors, les fourmis, les abeilles, ont quelque langue naturelle pour s'entre- communiquer, je n'en fais aucun doute. Il y a même lieu de croire que la langue des castors et celle des fourmis sont dans le geste et parlent seulement aux yeux. Quoiqu'il en soit, par cela même que les unes et les autres de ces langues sont naturelles, elles ne sont pas acquises ; les animaux qui les parlent les ont en naissant, ils les ont tous, et partout la même ; ils n'en changent point, ils n'y font pas le moindre progrès. La langue de convention n'appartient qu'à l'homme. Voilà pourquoi l'homme fait des progrès soit en bien soit en mal, et pourquoi les animaux n'en font point. Cette seule distinction paraît mener loin : on l'explique, dit- on, par la différence des organes. Je serais curieux de voir cette explication.